2003年5月5日総会にて(藤沢市民会館)

医師制度と医療の質

 医師免許は医学の知識を保証しているかも知れないが、医療の質を保証しているものではない

    南淵明宏
    大和成和病院心臓病センター長

 メディアに紹介される今日的状況
 休みの中、非常に暑い日にお越しいただきまして、本当にうれしく思います。毎度、言うことは同じなんですけれども……。とにかくこうやって皆さんのお顔を見ると非常に元気づけられます。毎日、手術をやっておりますと非常に落ち込むというか、つらいこともあるんですけれども、こういう日に皆さんの笑顔を迎えることによって、本当に新しいエネルギーが注入されるように思います。
 昨今、お気付きだと思いますが、いろいろなメディアに紹介される状況になっております。どのような形で、僕の人となり、あるいは主張が伝わるかというのはなかなか幾重ものフィルターがありますので、「ちょっと違うんじゃないか」とお感じになられるところもあるかもしれません……。先ほども「たけしの番組なんか出ちゃ駄目ですよ」なんて言われましたが、しかし自分としてはいいことを言っているつもりで、やっぱりカットされちゃうんですね。
 それからもう一つは、ああいうメディアというのは、やっぱりあらかじめ予測できないものだと思うんです。何が売れるかわからない、何が当たるかわからないというのがこのご時世でもありますし、メディアをコントロールする者がすごいとよく言いますけれど、やっぱりコントロールはできません。どんなものができるか、どんなものが撮れるか、つくっている側もまさに行き当たりばったりです。
 実は4月の始め、きょうもお越しいただいております患者さんのドキュメンタリーということでテレビ出ましたが、今日からまた別のドキュメンタリーの撮影が始まります。やはり同じTBSで、今度は僕が主役ではなくて研修医が主役です。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、研修をしている内藤先生、まだ30歳前ですが、今までの大学の医局といいますか、そういう大会社、筑波大学というところですが、そこを辞めて弟子入りしたいということで来られました。その働いている様子を密着で撮りたいということなんです。
 結局、何が言いたかったかというと、そういうところにカメラが向いてどういったものが映ってくるか、どういったものが伝えられるかというのは、本当にある意味で行き当たりばったり的なものではないか…。だからこそ伝える意味があるというのがこのメディアのいいところでもあり、また不確実なところでもあるのかなというふうに思いますし、最近こういったいろんな機会を得て勉強させていただいた次第です。
 前回の考心会でお話しさせていただいたのが昨年の11月3日です。当時、すでに僕自身が「朝日新聞」に690字ほどのエッセイを毎週載せていただくという状況があって、1ヵ月ぐらいが過ぎていたと思います。その後もいろいろと、新しい題材をいろんな角度から書いてみました。まさに文章が短いということと、毎週あるということで非常に産みの苦しみを味わいました。しかし評判がよくて12月で終わるはずが1月まで延びたんですけれども、そういうことがありました。
 しかしそのときにやっぱり一番感じたのは、実際に僕自身が皆さんの手術をやらせていただいて得た経験、あるいは自分なりの考え、個人的な内向きの考えもありますけれども外向きの考え、そういったものをどういうふうに表現していくかということですね。材料はたくさんあります。でもそれをどう書けばいいのか、例えば例を挙げて説明するのがいいか、どんな書き出しで書くのがいいかということを考えさせられる、非常にいい機会でもありました。

 知不知・知未知・知無知
 その「朝日新聞」に、今年の1月に入りまして書かせていただいたものがあります。
 例えば医者というのは何も知らないんだと。何も知らないということを知る「無知の知」ということです。「無知の知」というのは、ギリシャのソクラテスが言っていることなんですけれども、そういうものに中国バージョンだともう少し詳しく入っていまして、要するに他人は知っているけれども自分は知らないということを自覚しなさいということ=知不知。
 それから、例えばある薬を出す。この薬が効くか効かないかということに関しても、全然未知のものなんだ。でも10年ぐらいたったらわかるかもしれない。そういった未知のものであるということを知るということ=知未知。
 そしてさらに、どうして地球上に生命があり火星にはないのか。あるいは命とは何ぞや、命の根源とは何だというふうな、恐らく地球が消滅するまであと10億年あるわけですけれど、10億年間、仮に人類が生き延びたとして、いろいろ考えていろんな研究や勉強しても解き明かされないであろう、そういった知るすべも絶対にあり得ないだろうというふうな未知のものがある。わかり得ないものがあるというふうな話です=知無知。
 そういった不知の知、そして未知の知、そして無知の知ということで、中国バージョンになるとギリシャの無知の知が三つに分かれるわけですけれども、そういうふうな話を紹介するようなことで、大変に自分なりにもご好評を得たようです。

 執刀医の恐怖
 その後に今度は、4月号の月刊『文芸春秋』に「執刀医の恐怖」という題で、手術を受ける患者さんは怖い、ところがやる側も怖いんだというふうなことを書かせていただきました。これは自分で言うのも何ですが、好評を博したようです。
 今日、実は午前中も病院のほうで取材がありました。先週金曜日に経済産業省の方と不良債権の話をしていると、その産業省の方から口をついて「この間、文芸春秋に載っていた心臓外科の先生が『手術するのは怖い』といっていた、これだよね。すべからく社会人、特に専門家あるいは権限のある人間というのは自分のやっていることに対する怖さ、何か踏み外したり間違ったことをしたらすごく怖いんだという、まずそこからスタートすべきだよね」というふうに言っていたということで、各方面でお読みいただいているようです。
 そういう話を聞いたりして、不謹慎な言い方をしますけれどもこれはネタがうまく当たったなと。手術を受ける側も怖いでしょう、当然ですが、手術をやるほうも怖い。こういうふうな文言で、手術前に説明をさせていただいた患者さんはこの中にもいると思います。
 でもそこでもう一言、僕が付け加えたいのは、これはやはり今までのお医者さんたちみんなが思っていたことなんですが、決して口に出してはいけないというふうに医療界の中で、あるいは病院の社会の中で縛られてきたことなんです。非常に単純なことで、患者さんだってそう思っている。他人様の胸を開けて、そんな人間のすることじゃないよ。そんな大それたことをやらかすわけだから、それはやっぱり医者だって怖いだろうなと。
 ところが医者のほうは、「そんな当たり前のことを患者さんに言って、患者さんを怖がらせて一体何の意味があるんだ」というようなことで、患者さんを怖がらせることというのはどんなことでも絶対にやっちゃいけないというようになっています。それで結局、患者さんと医者側の溝がずっと埋まらないままである。これは一つの象徴的な出来事だと思うんです。
 そういうところで僕自身がたくさん手術をやらせていただいているという立場も、もちろんあったわけですけれど、それでああいうふうなことを言わせていただく。例えば自動車レースに出る前に、ぶつかるんじゃないかと思ってレーサーは怖いと思うとか、これは当然だと思うんです。ところがそれを言っちゃいけない、男の子はそういう弱音をはいちゃいけないというようなことになったのかな。でも、本当に弱音だけではないと思うんです。それを忘れてレースする。あるいはもちろん手術ということでは、それもやっぱり非常に危険なこと、あるいはやってはいけないことなんだというふうに思ったりするわけです。
 そういった思いが自分なりの中でずっと何十年もありました。僕はちょうど今年の4月で医者になって20年。21年目に突入したわけですけれども、思い続けておりました。僕だけじゃない、多くの人が、医学部の学生のときからも、同級生やあるいは先輩や後輩が言っていたことなんです。それがやっぱり患者さんには言えなかった。あるいは「怖い」って言っても患者さんが聞いてくれなかった。
 「先生、そんな冗談を言わないでくださいよ。先生は医者でしょう。医者だったら、そんなことはあり得ないでしょう。勉強もしているし、トレーニングも受けているんだから」と、これは患者さんの思い込みですね。そうあってほしいから、そうに違いないということで幻想をつくってきたわけです。そのつくられた幻想に医者がはまり込んでいた。
 あるいは「そうじゃないんだけどな。でもみんなが思っているんだから、そういう役割を演じないといけないな」というふうにされてきたお医者さんも多いと思います。あるいは「そうだ、そうだ。なるほどその通り。おれは、医者は偉いんだ。何をやったっていいんだ」というふうに思った人もたくさんいると思います。そういったことが今の医療の問題かなと思ったりしています。
 とにかくこういった、自分が思っていることというものをどう表現するかというのが、やっぱり今までの自分としては、あまり……。要するに同じことを考え、同じことをやっている。10年間、同じなんです。ところが最近、もちろん世の中も動いたせいもあるでしょうけれども、皆さんに意見を取り上げていただくというのは、やはり自分なりにもそういったテクニックというか、言い方がよくなったのかなと思ったりしております。

 ブラックジャックによろしく
 最近ご存じの方もいらっしゃると思いますが、ドラマで「ブラックジャックによろしく」という大学を卒業したばかりの研修医が大学病院の外科であるとか、内科であるとか、新生児科であるとか、そういったところをいろいろローテーションします。そのときに目の当たりにする医療の現場に大きな矛盾とか怒りとか、あるいは感激したりというドラマです。漫画の原作は講談社の『週刊モーニング』ですけれども、非常にそれが好評を博したということで、TBSで今年の4月から放映されることになりました。
 そこは僕自身も医療監修ということで、原作に引き続き関与させていただいております。今のところ第3回まで放映されました。1回目、2回目は外科、3回目から循環器内科、心臓の専門の内科の先生。内科の医局です。そこに研修医がトレーニングを受けるという設定ですね。そこに心臓病の、バイパス手術を受けなければいけない患者さんがいて、それを民間病院である淵南記念病院。南淵の淵に、南ですね。(笑)
 何か関係があるんでしょうか僕にはわかりませんけれども、淵南記念病院という所に研修医が患者さんを強引に紹介する。研修医の独断で「大学病院で手術をしちゃ危ないぞ」というようなことで送るということですね。これは漫画の原作にもあるんですけれども、皆さん、この中に言わずと知れたこと、似たような話、現実の話があるというのは言うまでもないことですけれども、そういったことがヒントになったんです。
 結局、そういった自分の周りで起こっているいろんなことというものが、漫画やあるいはドラマということで、このエピソードがすごく端的にいろんなことを物語っているというふうに判断、放送局やあるいは漫画を作る講談社、あるいは発行する場面で考えられたと思うんです。やっぱりこれは読者あるいは一般世間の批判を買うのではないか。あるいは不安をあおるのではないかという判断であれば、こうはならなかったと思うんです。
 世の中が進んでいる、あるいは変わってきている。医療を見る目が非常に研ぎ澄まされてきているという事証ですね。それも一つあると思うんですね、やはりこの表現のプレゼンテーション、どう説明していくか。どういう材料を使って説明していくかということなのかなというふうに、非常に僕は感慨を深くしたわけです。
 ドラマが始まったのが4月11日。ちょうど1週間前、4月の4日ですが、先ほど申しました、ここにもいらしていただいている患者さんを中心にしたドキュメンタリーが報道されました。そのドキュメンタリーは実録で、やらせでは決してないわけです。実録ということがドラマ仕立てといっては変ですけれども、みんなにわかりやすいように出てきている。
 でも、皆さんはそれが実際の映像であるわけですから、疑いの余地がないわけです。映っている映像は実際に僕が手術したり、喜んだり、困ったりしている顔。これは全くの事実であるから疑いようがない。そこに何かがあるに決まっているという見方で見ると思います。それは本当に素晴らしい、実録の示すドキュメンタリー、うそのない大変大きな表現力、分かりやすいものであるというふうにも思いますが、ちょうどその1週間後から、今申し上げております「ブラックジャックによろしく」というドラマが始まりました。
 ドラマということを考えてみますと、ドラマというのは全くの作り物のわけです。何もないところから、本当にスタジオはこの会場ぐらいの広さがあるんですけれども、木でトントンと手術室やいろんなパイプの配管、病院の様子を造っていく。全部作り物なんです。すべてがフェイクで、すべてがまやかしである。そう思って造る側も造っているし、見る側も見ているわけです。
 ところがドラマである以上、そこに何らかのメッセージがないといけない。そのメッセージも「そんなことはあり得ない、そんなことを普通、人間は考えないよ。患者や医者の間でそんな会話はない」、あるいは「親と子供の間でそんなことはない」というのでは、これはもう意味がないわけです。そう考えると小説も映画もすべてそうかもしれません。すべてはつくりもの、すべてはフェイクであるのにもかかわらず、そこには真実がなければいけない。そこには真実が表現されているわけです。
 そういうふうなことを僕自身、ドラマということを作るのに携わって非常に感慨を深くしました。言ってみれば当たり前なのかもしれませんけれども、虚構と虚構の織りなす真実。虚構でしか言えない非常に分かりやすい、原色で染まった真実のメッセージです。手術の怖さ、手術の危険性、そしてその手術を受ける患者さんの恐怖であるし、また執刀する側の恐怖、またそれを周囲で手伝う側の緊張感ということです。
 これは宣伝みたいですが5月9日、今週の金曜日に心臓手術の場面が出てきます。それに関しては、非常に僕自身も付きっきりで演技指導をさせていただいたわけです。緑山というのがあるわけです。緑山の緑は、横浜市緑区の緑。どちらが先か分かりませんけれども、とにかく鶴川の辺りにある。子どもの国のすぐ北です。そこの大きな体育館のようなところにセットが造られて、そこで手術の場面。手術する執刀医は原田芳雄さんなんですけれど、ドラマとして造られています。うそなんです、本物じゃないわけです。心臓もゴムで作ったもの。それに空気を入れて膨らませて、そのうそのものを本当らしく見せる、本当の手術室のように見せる。
 そういった作業、あるいはすごい、ある言い方をすると「だまし」ですよね。その謀略に加担している自分というのを見て、決して悪い意味じゃないですよ。悪い意味じゃないんですけれども、一体自分は何をやっているんだろうなと思ったりしました。ちょうど撮影が5月2日だったんです。5月1日は3件の手術があって、2件は全く同じような手術を僕はやったんです。
 その次の日にゴムの心臓で再現というよりも、分かりやすく説明するように。全国で今、視聴率は15%。ですからうまくいけばもうちょっと上がる。何十万、あるいは百万人以上の人がそれを見るわけですけれど、まさに全国あるいは人類史上初かもしれないというような衝撃的な心臓の手術の場面。そしてそこで皆さん、手術が終わったから「あんなこともあるかな」という感じかもしれませんけれども、トラブルが起こるわけです。皆さんはそんなのがなかったから、今ここで聞いていらっしゃるわけですけれども(笑い)、そういうトラブルのシーンなんかも出てきます。
 みんながあっと慌てふためるような様子というようなことが、実にリアルに描かれているわけです。そういったところを自分が関与する、あるいは監督や俳優さんに聞かれるわけです。「南淵先生、これでいいですか」なんて言われて、「いや、まあ、それでいいのかな。よく分からないな」と、なかなか自分というのは見えないわけですから。もうちょっと僕は余裕があって対処するんじゃないかなと思うんですけれど、それじゃドラマになりませんから、みんな大変な顔をする。
 あと全然関係ない話ですけれど、そのときに僕自身は手だけが少し映るかもわかりません。縫っているところです。模型でやったのですが、その手を撮影しましたので。放送されないかもわからないですけれど。ただし、手術室の看護師さんの役。器械を出す、メスとかですね。それはうちの看護師さんの2人が実際に登場しております。
 それとあともう一つ、「ブラックジャックによろしく」のドラマですけれども、ちらっとしか映りませんけれど、レントゲンだとか超音波だとか心電図が出てくるんです。全部、実際の患者さんのものを使っております。しかもそのドラマに出てくる設定と非常によく似通った患者さんのものが使われているわけです。きょうもこちらが始まる前にお会いした方。それが心臓の冠動脈が細い、詰まりそうだ、危ないというふうなことのフィルムをきょう来られたKさんという方のを使わせていただいたんですけれども、そういうことでドラマ自体が本当に一生懸命、みんなつくっています。
 ただ、視聴率をとるだけの世界だけではなくて、さっきから言っているように大きな講堂に100人ぐらいの非常に若い世代の人たちがセットをつくっている、その熱意というか。ここまで一生懸命、自分が日ごろやっている心臓外科の手術、あるいは皆さんの受けた心臓の手術と……。
 やっぱり皆さんもご経験があると思うんですけど、「心臓の手術を受けたんですか」って、周りで聞いている一般の人は自分なんか絶対心臓病にならない、自分なんか絶対手術を受けないぞと思っていますから、いろいろ皆さんが近所の人や友人に説明しても、みんな上のそらで聞いていると思うんです。「こんなことをやったんだよ」なんて言ったって、みんなが「へー、そお。最近はすごいね」とそれで終わりだと思うんです。でも本当にこうやって手術をやる側、皆さんは受けた側というふうなことに関して、一般の人たちが目を向けるすごいチャンスじゃないかというふうに思います。5月9日の夜10時からTBSなんですけれども、そういう番組があるということです。
 それとあと、ちょうど朝日の連載にも書かせていただきましたけれど、手術は肺の手術で違うんですけれど、『海と毒薬』という遠藤周作さんの書かれた小説を映画化して奥田瑛二さんなんかが出ています。この映画でも手術室の場面、肺の手術なんですけど、昔の結核の手術ということですけれども、そこでトラブルが起こる。みんなが「わあー、大変だ」と、その様子というのは本当に臨場感があって、僕が見ていても本当に身につまされる思い。
 それが僕は今まで結構、映画が好きでいろいろ見ているんですけれども、一番よくできた映画だったと思うんです。手術室のシーンを医療人の立場から、治療をやっている、手術をやっている側からみんなに分かっていただける点ではすごくいい場面かなと。要するに僕らのつらさ、怖さ、緊張感、そう思っていたんですけれど、それを勝ってくれる場面が出てくるかなと自分ではちょっと期待はしているんです。
 そういうふうなことで、最近自分が経験したそういうドラマに関して、「演技指導をやってください」と言われて、「あいよ」ということでやったんですけど、そこで本当に考えたことがあったということを今日はお話ししました。

 心臓外科医の権限
 あともう一つ最後ですけれども、こうやって今のドラマの話と同じなんですけれども、今本当にいろんな方が……。さっき言いました、きょうの朝も来られて「心臓外科ってどんな手術をするんですか、どんな気持ちで、どんな生活をしているんですか」と、非常に皆さんは興味を持っていただけるようになったわけです。それで「こうですよ」ということを説明する自分というのを、もう1回自答してみます。自分で心臓の手術をやっているんですけれども、本当に月に2、3回ですけれども手術が始まるときに、朝、手術室に僕が入ります。患者さんが準備されているわけです。麻酔もかかっている。看護師さんもたくさんいる。僕はメスで切りかけるわけです。
 その瞬間に「こんなことを自分はやっていいんだろうか、こういう権限というのはどこから自分がもらったんだろうか」と。ただ自分は医師免許を持っているだけじゃないかと。それは法的には許されるのかもしれないけど、本当に運命の決まりというか、あるいは天の決まり、この世の中の法則として本当に自分にそれだけの権限があるのか。今、この患者さんの手術をやめようと言うと、みんな「じゃあ、やめ」ということになるのかもしれないですけど、でも心臓の手術自体が大変な危険な状況になるわけです。そういうことを月に一度ぐらい考えることがあったりします。
 そうなりますと余計なことかもしれませんけれども、医者あるいは医師免許って一体何なんだというふうな考えに到達というか、思いをはせるわけです。この4月からずっとそんなことを考えております。医者だから手術をしていい。医者だから薬を投薬していい。あるいは「あんたは死ぬかもしれないよ」、あるいは「入院しろ」、「退院しろ」というふうな権限というものが、まさに天から、あるいはヨーロッパの王様の権力ということで王権神授説、王の権力は神から備わったものだというふうな考え方があるんです。
 まさにそういった宗教的な力のようにみんなが信じているということにのっとって、自分は一応、厚生労働省の医師免許が与えられているので、やっちゃっていいのかということなんですけれど。本当にそれだけの自分に必然性、個人的な力量も含め、あるいはこの世の中の摂理ということの中で、自分がそうやって他人の体に傷をつけるべき必然性、あるいは権利があるんだろうかというふうに思ったりします。
 別の言い方をしますとこういう手術をする自分というものが、中には結局手術によって合併症が出て手術の前よりも悪くなっちゃう人もいるわけです。もちろん大半、多くの方は元気になる。そしてこういう会場に来ていただけるわけですけれども、そうじゃない状況を、例えば宇宙人が見ている、あるいは僕の好きなそこら辺の猫が見ている。「何をやっているんだ、こいつは。他人を散々脅して手術台に乗せて、それで神様、亡くなっちゃった。何だ、こいつは」というふうなことになりかねない。
 ですから常にそういった、決まりきった確実な自分が権力を持っている、力を持っているというふうなことは常に保証されているのではないんだというふうな考えを最近持つようになって。これはそうでないよりもいい、殊勝な考えなのかなと思ったりするわけです。医師法というのを見ますと、例えば医師免許がない人が医療行為をしたら、「それは犯罪じゃないか」というふうにみんな言うと思います。
 医師法というのを見ますと、「医師でなければ医業をなしてはならない」というふうなことが書いてあるわけです。いかにも日本的であいまいです。何じゃ、医業って? どこにも定義がないわけです、医業とは。たまたま非常にかしこまって法律の文章として書かれている。医業って医療行為じゃないんです。そこがまさしく禅問答に持っていく日本の社会らしいんですけれども、そういうことが書かれているだけです。
 困っている患者さんに対して、身体的異常がある。隣の家に「苦しい」と言ってもがいている人がいる、そこで隣の家に行って処置をする。それでその人が元気になる。それでいいわけです、元気になれば。でも逆に医師免許があるからといって、「これはああしなさい、こうしなさい」、あるいは「水を飲みなさい」とそんなことを言っちゃっていい権限が一応はあるわけでしょうけれども、それで逆のことだって起こり得るわけだし、あるいはそれがでたらめである可能性もあるわけです。
 そんなことを考えまして、最近はそういう医師免許というものが単に自動車の運転免許程度であって、最低限の知識はある。しかも医学だけ。座学です、実学ではないわけです。実践的な学問ではない。そういうことを一応知っていないことはないという証明が医師免許のわけであるから、いくら法律で許されているからといえ、やはり常に自己を規制する考えを持ちながら患者に接するべきなんではないかなということを、抽象的であまり皆さんには関係ないのかもしれないのですけれども思ったり、あるいはそういうふうなことを題材にして、世間の方々にお話ししていったらいいのかな、なんて思ったりしております。
 そういうことで、この後でいろんな話もあると思います。きょうは医療事故市民オンブズマンメディオ代表の阿部康一さん、それから読売新聞の渡辺恒雄さんじゃなくて(笑)勝敏さんの2人に来ていただいておりますので、3人でいろいろ討論というか、皆さんが普通に感じるようなことなんかを聞いていきたい。
 それからあと途中で会場から手を挙げていただいても結構ですから、いろいろと新しい試み、あるいはざっくばらんな、正直なことを言わないと今の世の中はだれも見向きしないという状況だと僕は思います。そういうふうに考えこういうような企画を立てましたので、どうかご期待ください。ご清聴、ありがとうございました。(拍手)