2004年5月16日総会にて(グリーンホール相模大野)

 

 手術を受ける人も怖いけれど、

       手術する人も怖い

     南淵明宏
     大和成和病院心臓病センター長

 失敗を乗り越えない気持ちをずっと持ち続けたい
 皆さん、こんにちは。(拍手)。実は昨日は、私が卒業した奈良県立医大で講演をしてまいりました。3〜4年ぐらい前までは、医者を対象にした講演ばかりで、最近は一般の人を対象にした講演に招かれるようになりました。さらに、バラエティ番組に出させていただいたり、新聞、雑誌、テレビを含めて、いろんなところで発言をしております。テレビのドラマも最近は非常に医療に興味を持っていただくという状況になっております。
 皆さんは、手術を私どもでお受けになられました。事前にあるいは前の日に「心臓の手術はああする、こうする」と説明させていただいているわけですが、皆さんのもともとの知識、あるいは病気の状況にもよりますが、我々の説明の仕方にも不備があったりして、大変な勘違いをなされるということがあったかもしれません。
 例えば、私が『受ける?受けない?冠状動脈バイバス手術』という本に、手術すると脳梗塞になるかもしれないというように合併症について書いてあります。それで皆さん、お読みいただいているかなと思っていたら、退院の間際に、「いや、あの本に書いてあることをちゃんと理解していたら手術を受けませんでした」なんていうことを言われる。「何だ、全然分かっていなかったのか。でもよく分かっていただかなくてもよかったな」なんていうもので、そういうご経験が皆さんにもあるのかもしれません。
 先ほど申しましたが新聞やメディアの方ですね。前の考心会のときはフジテレビの「白い巨塔」、その前はTBSの「ブラックジャックによろしく」という番組で、医者と患者さんという立場ではない人たちからいろんな質問を受けます。手術前に患者さんはよく「まないたのコイ」ということをおっしゃいます。まさにそのとおりで、四の五の言えないような状況ですが、メディアの人たちというのは四の五の言うんですね。
 私が勝手に「こういう話、こういう例えはきっと患者さんに分かりやすいに違いない」と思っていても、メディアの人たちにしてみたら、「南淵先生、何を言っているんですか、全く分かりませんよ」と言われて、自分のプライドをぶち壊される。 そういうこともありながら、医者と患者さんの関係とか、あるいは医者の心境であるとかをずっと自問自答しております 。
 その中で特に私自身には、手術する側の恐怖というか、執刀医の恐怖感ですね、怖さ。手術を受ける人も怖いけれども、手術する人も怖いんですよという気持ちが一貫してあります。
 財前五郎が手術の前にシミュレーションを手でしています。あれは怖さの表現なんですね。私はあれを見たとき、「えっ」と思ったんです。でも私自身が手術の前、例えば病院に行くときに道順を変えないとか、あるいは猫のシャツをいつも着ているとか、そういったことがああいう形でテレビに表現されているのではないか。つまり医療は人間がやっている、血の通った生身の人間がやっているんだというふうなことを、ドラマでも表現されているのかなと思っているわけです。
 「白い巨塔」の中でいくつかそういう場面があります。例えば、財前五郎のライバルで友人である里見脩二という内科の助教授がいます。彼が財前五郎に対して、「自分自身は悩み続けるという一点で、医者であり続けられる」と言うわけです。もちろん財前も同じですが表現の仕方が違う。しかし、根本は同じという設定ですね。
 財前は「自分は何か確実なものが欲しいので教授になりたい」と言う。でも確実なものが欲しいということは、裏を返せば確実なものがない、自分は不安で不安でしようがないということなんです。それで自分も悩み続けている。悩み続けている自分を正面から自覚して悩み続けるのが里見であり、財前はそうではなくて教授やがんセンターの所長という地位をつかんだりして、目に見えるもので自分の不安や悩みを解消しようと努力している。二人には共通した同じ根源、同じ悩みがある。悩みというのは医療というものの不確実さということかもしれません。
 医療には1人として同じ患者さんがおりません。それに対して治療を行い、うまくいく患者さんもたくさんいますが、そうでない患者さんもいます。うまくいかない原因は何なのか、結果をもとに反省するわけですね。しかし、結果が悪かったのに自分としては問題ないはずだと反省しない、悩まなければそれは何のプラスにもならない。前にも進まないわけで、結局そうやって悩み続ける。結果が悪ければ、それはすべて自分の落ち度であるという考え方です。それがまず前提にある。その表現の違いが、里見脩二と財前五郎に現れているということです。
 私は「白い巨塔」の放送のちょうど1年前、フジテレビに呼ばれて、プロデューサーやディレクターに、医者としての考えを話させていただきました。そのとき、「実は悩み抜いている、あるいは不安だ」ということを言ったわけですね。
 一番彼らに通じたことは、元気な患者さんの顔はどちらかというと忘れがちで、「もっとましな手術ができたんじゃないかな、大変申し訳ないな」と思っている患者さんの顔というのはなかなか忘れないというふうな話をさせていただいた。
 するとフジテレビのスタッフが「それは大変ですね。そういう暗い気持ち、手術がうまくいかなかったという打ちひしがれた気持ちですね、南淵先生は次の患者さんの手術のとき、どうやってそうしたつらい気持ちを切り替え、乗り越えているんですか」と聞かれたのです。そのとき私は、「乗り越える? いや、乗り越えてないです。全く乗り越えていません。それは乗り越えられない。乗り越えられないまま、自分の気持ちの中にずっと残っています。ずっと沈殿しているんですよ」という話をさせていただきました。
 この世の中でお仕事をされている方、プロということを考えますと、皆さんもいろんな失敗を引きずってらっしゃると思うんです。引きずること、引きずっている気持ち、引きずっている毎日というものが、一見何気ない毎日、一見何気なくうまく終わる仕事、そういったものをつくっているのかなと思います。だからそういった意味では、人間の失敗ということに関して「失敗は成功のもと」とも言います。
 私は中谷彰宏さんの言葉を座右の銘にしています。「世の中には二通りの人間がいて、失敗も成功もしない人と、失敗もするけれど成功もする人。この二通りです」という話ですね。なるほどなと思うのです。今申し上げました、失敗を原因に成功する人。これはやっぱり失敗というものが、火鉢の灰の中でずっと燃え続けている炭のようにずっとその火を絶やさない。そういった形で人間一人一人の心の中に沈殿していっている。そうしたことの積み重ね、非常につらいことがどんどん積み重ねられていくというのが人生だと思います。そうでないとまた人生ではない、仕事ではないとも思います。
 それが一つのプロです。プロというのは自分の気持ちの中では、失敗をずっと乗り越えない。もちろん技術的にはいろいろ工夫して、次はこういうことが起こらないようにしますが、しかし、気持ちの中ではそういう乗り越えられない強い後悔であるとか、マイナスの感情ですね、それをずっと持ち続けることというのが当たり前かなと思います。
私は皆さんと同じことを考え、同じ感覚で生きている人間です。人間というのは自分と違う考えとか、自分が理解したこともない考えを新たに理解するのは大変難しい。あるいはほとんど無理に近いと思います。そういう意味もありまして、とにかく皆さんからある程度のご賛同をいただいたり支持を得ているという理由は、結局私自身が分かりやすい形で皆さんと同じ、共通した人間なのではないかなというふうに、最近、特に思うようになっています。
 考心会は病院とは独立した形の患者さんの自主的な会ですが、こんなに盛況になっている。精神の文化といったものがまさに独立して、何もないところから育っているわけです。この場というのは何の営利でもないし、打算でつくられているものではない。まさに精神文化がつくり出した場であるわけですね。
 結論的に何度も言うように、私にはやはり皆さんと共通するような価値観、考え方というものが自分の中にある。それが皆さんのご理解を得たり、あるいは皆さんだけじゃない、皆さん同士の中でも当然のことながら同じような考え方、同じような悩みであるとか生き方をお持ちになっておられる、そういうふうに私は思います。
 最近、読売新聞の一面の「時評」に、戒めの言葉がありました。石森章太郎さんの原作『佐武と市捕物控』です。目の見えない市という仕込みづえを持った人が「目あきというのはいろんなものが見えているようで全然見えない。さらにどんなに良くできるやつでも自分の背中は見えねえんだよ」ということを言っています。これは素晴らしい言葉ですね。
 私自身も自分の背中が見えないので、頓宮さんをはじめ、考心会の皆さんに私の背中を見ていただく目になっていただいて、今後ともいろいろアドバイスをいただければと、このように思います。どうもご清聴をありがとうございました。(拍手)

(この講演内容は幹事会の責任で概要をまとめたものです)