藤崎浩行先生(相模原協同病院心臓血管外科部長) 

2012年5月6日(大和市保健福祉センター)

演題:“救命と延命”医師と患者の側にある認識の違い

心臓外科医になるきっかけをつくってくれた天野先生

 こんにちは。相模原協同病院心臓外科の藤崎です。私は南淵先生のように歌を歌ったりとか、そういう気の利いたことはできないのですが……。今回、天皇陛下が心臓手術を受けられたときに天野篤先生が手術をなさったのですが、自分が心臓外科医になろうと思ったきっかけをつくってくださったのが天野先生だったので、本当によかったなと思っています。
 もともと自分は一般外科をやっていました。がんとかそういう手術を5年間、医者になってからやりました。その当時、湘南鎌倉病院というところで働いていたのです。そのときに見た心臓の手術というのは本当に質の悪い手術で、先ほど南淵先生が言っていましたが、心臓の手術をした後にリハビリできるんですかというと、絶対リハビリまでたどり着かないような手術ばかりでした。それが天野先生が来られたときに本当にきれいな手術で、自分が少しかかわった患者さんもきれいに助けていただいて、心臓外科をやろうかなと思ったそういうきっかけをつくってくださった先生が、ああいうふうにチャンスを――天野先生にとってもすごいチャンスというかチャレンジだったと思います。いい結果を出されて本当によかったなと思っています。

天皇陛下が自分が亡くなった後のことを発言されて驚きました

 今日これからお話しする内容です。先々週ぐらい新聞でごらんになった方もいるんじゃないかと思います。天皇陛下が亡くなったときに火葬を望んでいるという新聞の記事を読んで、まず自分は二つのことに驚きました。
 一つは亡くなった後のことを天皇陛下が新聞に発表なさったということにまず驚きました。そういうことは今まで触れてはいけないこと、そういう雰囲気があったのです。それが新聞の記事になっているわけです。もう一つはこの発表されたタイミングが、心臓の手術が終わってまだ1カ月半とか2カ月しか経っていなくて、やっとやってよかったなと思っている時期に、何でわざわざ亡くなった後のことを新聞に発表するんだろうと思ったのです。
 ただ、これがもし手術の前にそんなことが発表されていて、万が一、結果が悪かったら、その心臓の手術のイメージというのは最悪になるわけです。記事を読んでいると、手術に至るまでに1年間、2年間ずっと症状があって、それで周りの人もすごく緊張して、やっとそれから解放されたというときに亡くなった後のことを心配されるというのは、本当に個人的には大変なことだろうなと思ったのです。
 そういうタイミングで天皇陛下が亡くなった後のことを発表されたということで、自分が亡くなった後のことを議論することは、今まではそれを言っちゃいけない、日常生活の中で触れてはいけないことであったのが、だんだんみんなが議論できるようになってきたんだなというふうに感じました。

心臓バイパス手術とお墓のお値段は同じぐらい

 それからお金の話もあります。例えば昭和天皇のお墓をつくったらものすごくお金がかかります。それで今は国家の財政が大変だからということも記事に書いてあるわけです。心臓のバイパス手術というのは1回やると医療費は皆さんご存じだと思いますが250万円ぐらいかかります。縁起でもないかもしれないですが、墓石も大体そのくらいの値段と言われています。(笑)
 それからこれは又聞きの話ですが、高速道路には1キロ置きに置かなくてはいけないという非常電話があります。こんなに携帯電話が進歩したらだれも使ったことがないと思うんです。あれがやっぱり同じぐらいの値段がするそうです。原価は40万ぐらいだそうですが、大体そのくらいの値段です。そういうようにお金のことからも天皇陛下がご心配なさって、自分が亡くなった後のことを発表されたということです。

救命と延命について医師と患者の側に大きな認識の差がある


  そこから少し話を進めていきたいと思います。今は問題になっているかどうかわかりませんが、自分の中でいつも医療をやっている側と患者さんの側とで、ものすごく理解に差があるというのが救命です。「救命と延命」ということに関して我々が認識していることと、患者さんの側が認識していることには非常に大きな違いがあって、そのことをお話しさせていただきたいと思います。
 救命と延命というのは、救命処置、延命処置と言います。まずどこが同じなのかと言いますと、共通点が一つあります。それはどちらも患者さんの状態が非常に不安定であるということです。もし何もしなければ、あるいは何かしても近い将来亡くなってしまう確率が高いということが一つの共通点として挙げられると思います。
 違うところは何かというと、医療をやっている側、我々の側の認識の問題です。我々が「これは何をやっても駄目だな」と思いながらやっているとしたら、それはただの延命処置です。一方、「これは何とかまだ頑張れるだろう、頑張ってくれれば、三途の川の途中からまた帰ってこれるだろう」と思いながらやっているのが救命処置だと思います。
 患者さんにこれからやる医療の内容を説明したときに、よく聞かれるのが、「これは延命処置ですか」という言葉ですが、自分の中では絶対に延命という行為はしたくはないと思っているので、もちろん口が裂けても「延命処置です」とは言いません。

緊急時に手術を続けるのか止めるのかという時の判断

 例えば最近あった例です。3週間ぐらい前だったのですが、急性大動脈解離という血管が突然裂けてしまって非常に重篤な患者さんが運ばれてきました。年齢を見たら自分と同じでした。これは緊急で手術が必要です。心臓というのは心臓の周りに硬い心膜というのがあって、その中に出血しますとどんどん心臓を圧迫してしまいます。そういう兆候が見えていましたので、これは早くやらなければいけないということで、必死になって麻酔科とか人工心肺の手配、手術室の看護師さんにも連絡して準備をし、患者さんが手術をやると決めてから30分で手術室に入りました。
 ところが、麻酔の導入をしている最中に心臓が止まってしまいました。それでもまだ行けるかなと思ってすぐに手術を始め、胸を開けてその心膜を切開したところ、心タンポナーデ(心臓のまわりに血液が貯まり心臓を圧迫して機能しなくなる)と言いますが、その心臓まで血液が大出血して一気に2・5リットルぐらいの血が出ました。当然のことながら心臓は止まってしまいました。ところが麻酔科の先生が必死になって輸血をしてくださって、一回止まった心臓がまた動いたのです。それはかなり元気に動きました。
 ここから先です。ここで手術を続けるかどうかということです。結論から言うとやめました。なぜやめたかというと、一つの理由は、まず心臓が止まってから胸を開けて、また心拍が再開するまで5分以上たっていましたので、恐らく脳がもとにもどらないだろうという判断がその理由です。
 もう一つの理由は大動脈解離の手術をするときには、体温を下げます。手術の後、非常に止血に苦労する手術ではありますが、一回心停止になった方というのはその時点で体の中のタンパク質を消耗してしまって、まずどれだけ輸血しても血が止まらないということが今までの経験の中でわかっています。そこで手術の続行はやめましょうということなり、助手の先生に手を下ろしてもらいました。私たちの病院は手術のビデオを集中治療室で見れるようになっています。そこに家族の方に入ってもらってその心臓の状態を見てもらい、これは無理ですということでやめたのです。

奇跡は滅多に起きないから、奇跡に期待すべきことはするべきではない

 またお金の話をすれば、途中で手術をやめていますから、そこまで準備したものが全部パアになります。人工心肺だけで二十数万円が全部パアです。全部病院の持ち出しになってしまう。ただしこれをやっても延命処置です。そこから手術を続行しても延命処置にしかなりませんが、やればとりあえずは病院の収入にはなります。
 ただ、我々の病院もそこそこ忙しい。看護師も麻酔科の先生たちもしょっちゅう緊急で呼ばれて働いている中で、例えば手術に6時間、7時間、8時間という時間を割くことは、非常に冷淡なようですけれども難しい面もあります。そこのところで自分は決断をしなければいけなかった。続行するかしないかというのは私の一存ですが、これはもう無理だということでやめました。
 ドラマだったらここから先は絶対奇跡が起きるのです。そこでお医者さんがヒーローになって、その患者さんは目が開いて元気になって帰っていくという、そのドラマに私自身も毒されている部分があります。そういうヒーローになれるんじゃないかという気はちょっとはあるんです。医者を始めたときに上司に言われたのが、「だれもヒーローにはなれない。奇跡は確かに起きるかもしれないけれども、めったに起きないから奇跡なのであって、奇跡はそうしょっちゅうは起きないんだよ。それに期待するようなことはできるだけすべきではない」ということを繰り返し言われていましたので、それをいまだに守っているところがあります。

救命をやっていても途中から延命になることがあります

 我々が延命なのか救命なのかというのは、そのぐらい難しい。これはどっちか、延命処置なのか、救命処置なのかという話です。我々がどう思っているかによって、同じことでも延命か救命かというのは違います。例えばやっている最中に、救命のつもりでやっていても、途中から無理だなと思った瞬間にこれはそこから続けて延命になってしまうわけです。そこのところを家族の方に説明するというのはものすごく難しい。
 要するに「ここまでやりましたけど、もう難しいと思います」と言った瞬間に、当然のことながら胸ぐらをつかまれる覚悟をしなくてはいけないのです。この間も、亡くなった方に高校生の息子さんがいらっしゃって、茶髪で耳にピアスがついていて、まゆ毛もそっていて、血気盛んな感じでした。背も僕よりちょっと低いですがすごく屈強な感じで、リアクションとして、この子が暴れ出したら困るなと思いながら話をしました。
 幸いそういうことは何もありませんでした。ただ、私たちが患者さんにそういうお話をする。「これは難しいと思います」と言ったときに、それをどういうふうに話していいのか、どういうふうに話したら受け入れてもらえるかというのはだれも教えてくれません。
 オーストラリアで仕事をしたときに、一回同じような修羅場がありました。小さいお子さんで1歳にもなっていなかったです。手術をしたんですが、半日やっても全然心臓が動いてくれない。しょうがない、終わりにしようということになって人工心肺をつけたままICUへ帰ったのです。これで両親は一体どうなるんだろうなと思っていたら、牧師さんがついていてくれました。
 牧師さんが、「みんな一生懸命やってくれて、ドクターも頑張ってやってくれたけれども、こういう結果だった。これはもうしょうがないことなんだ」ということを、20代の若い両親に説明してくれました。それで話が非常にスムーズにいって、同時にうらやましいなと思いました。日本のお坊さんは亡くなってから登場するだけで、まずいときには絶対登場してくれません。そういう場面に袈裟を着たお坊さんが来たら大変な騒ぎになりますから絶対に来ないです。

第3者の説明があると医師としては非常にありがたい

 そういう第三者の方が話してくれるというのは非常にありがたいことです。例えば我々が「一生懸命頑張ったんですけれども、やっぱり駄目なんです」と言ったときに、「頑張りが足りない」と言われてしまうことも多々あるわけです。第三者の方がそういう形でいてくださる環境というのはうらやましいなと思いました。そういう環境はまだ日本には残念ながらないというところで、こういう微妙なことに関して今後どういうふうにしていったらいいのかなということをよく考えます。

手術を勧める理由は、やったほうがやらないよりはいいからです

 ここで皆さんにお聞きしたいのは、皆さんは心臓の手術という大きな手術をするときに、神の手が手術をするから大丈夫だろうと思いつつ、でも、もしかしてというふうに思ったことも少しはあると思います。もし万が一のことが起きたらということを、ちゃんと家族の方とお話をされた方というのはどのくらいいるか教えていただきたい。――ほとんどあまりいらっしゃらない感じですね。
 私が心臓の手術をするときに、当然皆さんは迷われるわけです。まず100%大丈夫ということは絶対言えません。今の状態から考えたら、例えば1年後、2年後を考えたときに、やらないよりはやったほうが、多分、自分の健康上の不安というのも少ないですし、手術をやってうまくいかない確率と、手術をやってうまくいく確率を比べたときに、手術をやったほうがはるかにいいですよと、これが手術をお勧めする理由です。

選択肢は3つ〜手術を受ける、受けない、迷うのが一番困る

 多くの方は手術を受けていただけるのですけれども、非常に迷われる方がいます。その方は例えば「心臓の手術があんた必要だね」と言われたときに、選択肢は恐らく三つしかないと思います。一つは手術を受ける。二つは絶対受けない。どんなことになっても受けない。ちゃんとお墓の準備をしておく。いつ倒れても大丈夫。家族の方にも遺書なり何なりを書いておくという人です。
 三つ目。これが一番困ることですが、考えがまとまらないからとりあえず見なかったことにしておくというタイプ。救急車で病院に担ぎ込まれてから考えるという人で、現実にそういう方はいます。やらないと苦しい思いをしますよと言ってもなかなか決断出来ない。例えば動脈瘤破裂という病気があります。直前まで何の症状もなく、ある日突然、血管が破裂して痛みが出ます。そのときに救急車を呼んで来られるわけです。本人は意識があるかないかという状態で、必死に痛みをこらえています。家族の方が救急車から下りてきて「先生、何とかしてください」と言われますが、こちらとしては「だから言ったじゃない」ということになるわけです。そういうふうにその場になって慌てるというのは、結局よくない結果になることが多いと思います。

人工呼吸器など一度始めた治療はやめることができない

 これは非常に厳しい物の言い方かもしれませんけれども、我々は人間として生まれた以上は必ずいつかは死ぬわけです。例えば30年ぐらいたったら、多分、自分も生きているかどうかわかりません。ここにいらっしゃる方はほとんどだれもいないということになります。その準備というのは絶対しなきゃいけないかというとそうではないのですけれども、我々は患者さんの家族の方から「先生これは延命処置ですか」と言われて、「延命処置です」とは絶対に言いません。なぜかと言ったら、「なぜそんなことをするんですか」ということになるからです。
 なぜそれを絶対私が延命処置ですと言わないかというと、「延命処置です」と言った瞬間に「それはやめてください」と言われる可能性があります。ところが、一回始めたことは絶対にやめられません。人工呼吸器をつけたり、人工透析を始めたものを途中でやめてしまえば絶対にその方は亡くなるということがわかっているわけです。そういうふうに一度始めた治療というのをやめることは絶対にできないのです。
 新聞でごらんになった方がいると思いますが、いわゆる安楽死です。富山のほうで何人かの患者さんの人工呼吸器を途中で外したということで外科の先生が逮捕されました。長いこと裁判をやって結局仕事も失ってしまいました。それから川崎のほうでも同じように筋弛緩の薬を使ってやっぱり医者が逮捕されています。我々はそれを知っていますから、一度始めた治療というのは絶対に途中でやめることはできないのです。
 じゃあその場になって治療を始める前に家族の方に「どうしますか」と言ったときに、その場で患者さんは何も意識がなく、自分で決断を下せる状況ではないわけですから、家族の方と相談するしかありません。そのとき「元気なときからそういうことは絶対にやらないようにと言われていたので、しないでください」と言ってくださる方は10人に2人か3人ぐらいしかいません。
 あとは「とにかく先生できることをお願いします」ということになって、結局だれのためにこれをやっているんだろうと思うわけですね。血液をたくさん使って人工呼吸をやって、患者さんの体もどんどんむくんでいったりします。これは一体だれのためにやっているのかなということはやっぱり現実問題としてあります。
 新聞とか本の見出しで、自分の死に際を準備しておくということはよりよく生きることだと言われています。自分はまだこういう年ですので…、やはり心臓外科という仕事をしている以上は人の死に立ち会うことは一般の方よりはるかに多いのですが、自分はどうするのかということはまだ全然結論は出せません。だから話しておいたほうがいいよとか、いい生活、いい人生を送れますよということはとても言えないです。

救命と延命は正反対だが、違うことをやっているわけではない

 ただ一つだけ、今日、申し上げておきたいことは、延命と救命という全然正反対のことですけれども、そんなに全然違うことをやっているわけではないということが一つ。我々医療従事者から見て、これは無理だなと思いながらもやっぱりやり続けてしまうのが延命処置ということになります。そんなことはだれも望んではいないのです。ただ、始めた以上は途中でやめられないということです。
 じゃあ始めるときにどうしますかというお話をして、例えばもしそういう延命になるなというところで、そんなことは絶対しないようにということを事前に話し合っていなかったとしたら、「もういいです」と言ってしまえばそこで終わってしまいます。そういうことは家族の方も恐らくすごく言いづらいことだろうなと思います。じゃあどうしろというわけではないのですが、ただ、今、我々医療の現場で「延命処置は無駄だ」とかいろんなことを言われますけれども、そんな単純なことではないということだけを知っていただけたらと思って今日はまいりました。これで終わります。ありがとうございました。(拍手)